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戦争をめぐる旅『特攻隊長とその父5』

戦争をめぐる旅特攻隊長とその父

肇は三角兵舎に戻り、遺品を整理しながら分かれ際の言葉を思い出した。

「父ちゃん、國雄の晴れ姿を見て、うれしいじゃろ」

残された品々から立ち上がってる息子の香りをかぎながら、だれもいない兵舎の中にその声を探していた。

三角兵舎に帰って

最後の我突入の無電を聞き、三角兵舎に帰る。

昨夜、本朝(けさ)まで在りし、神々の姿なし。ただ今の数時間前の出来事想起され、一抹の寂寥(せきりょう)を感ず。

國雄名残の品、整理しながら、その香(か)を嗅ぎ、
「父ちゃん、晴れ姿見て嬉しいか」と、あの最後の声を繰り返したり。

横手少尉に慰められ、
「黒木は幸福(しあわせ)だった。航空に転科生のうち、イの一番に選抜され、金的を得、同僚の羨望だった。また、自分はわざわざ隊長より『黒木の出陣を見送りに行け』と命ぜられ来たりし者にして、隊長殿の命により真(しん)の整備兵も派遣されたのでした」と。

「今回の出撃に父から見送ってもらい、また最後の突入の電まで見聞き届けられるとは本当に黒木は幸福(こうふく)ものでした」と。

また、報道員の方よりも「出撃に立ち合われる事は最近少なく、良かった」と。
皆様よりありがたき言葉。これも國雄のお陰なり。

今日の天気も突入まで雲量あり、申し分なかりして、午後より少雨となる。
軍のご厚意により駅まで自動車を向けられ、高木報道員、横手少尉、佐伯少尉らと駅に向かう。事務所にて副官殿にお礼申し上げる。佐伯少尉も征かれる身、駅にて最後の御分離(お別れ)したり。

サラバ國雄、最後の地知覧よ。また父は来るよ。

「われ突入す」の無電まで聞き届けたが、いつか、あの姿で「ただいま帰りました」と戻って来るように思われてならない。煩悩である。
霊前に供えたユリの花の香りがするが、いまだに物寂しい。

折れた軍刀

一家が疎開していた高千穂町の家の前を、復員兵を乗せたトラックが毎日のように通る。そのたび「今のは國雄に似ていた」と言ってはトラックの後を追って走った。

母ソノもそうだった。
雨戸が風に揺れ音をたてると「國雄が帰って来たのでは」と夜中に戸を開けて伏す子の姿を探していたという。
肇のやるせない気持ちを表すものが残っている。
折れた軍刀である。

息子の形見として知覧から持ち帰り、延岡大空襲で家が焼かれた時も命がけで守った軍刀だ。
戦後、占領軍から軍刀や小銃などを提出するよう命令が出た。肇の悲しみは怒りに変わった。
小学生の2人の息子を連れて裏山に登り、軍刀を抜くと、怒りと悲しみをたたきつけるように木や竹を手当たり次第に切って回った。
そして鍛冶屋(かじや)で2つに折らせ、床下に隠した。

その折られた軍刀は今、延岡市北町に住む二男の民雄が持っている。
「親父の意地だったのでしょう」
民雄は、鞘(さや)から抜いて私に見せてくれた。
刃がこぼれ、真ん中から折れた軍刀が目の前に現れた。
父親の無念の思いが伝わってきた。痛々しい戦争の記憶。
肇はノートにこう記した。

サラバ國雄最後の地知覧よ 又父は来るよ

しかし再び知覧に戻ることはなく、昭和31年に60歳で亡くなった。

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書いた人:坂本光三郎

坂本光三郎

宮崎県延岡市出身・在住。1983年、早稲田大学を卒業し、延岡市の夕刊デイリー新聞社に入社。編集部記者として、文化・歴史・福祉を担当。小・中学校の平和学習講師も務めている。現在、夕刊デイリー新聞社取締役(編集担当)。FMのべおか局長。

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