戦争をめぐる旅『月光の響き3』

戦場の山倉兼蔵は、遠い存在に思えた。
宮崎県門川町に家族を残して出征したのを最後に、彼の姿は突然見えなくなる。
突然、兵士にされた平凡なサラリーマンはどこに行ってしまったのか。

私たちは当時の資料を集め、徹底的に調べた。
後に軍事史研究家の力も借りてわかったことは――。

要塞建築勤務第6中隊

山倉兼蔵は、都城に編成された西部第17部隊に召集された。
この部隊は、要塞建築勤務第6中隊と称され、沖縄で飛行場施設や宿舎などの建設にあたることが目的だった。
所属した約300人の大半が30歳半ばの工員や大工、農民出身者で、大半が実戦経験はなかった。
昭和19(1944)年4月10日に門司港を出発し、22日に那覇港到着。
沖縄本島の嘉手納や小那覇、伊江島などで任務にあたっていたが、翌20年4月に始まったアメリカ軍の上陸で状況は一変する。
戦闘する部隊ではなかったため、銃などの装備をほとんど持たないまま特設第1連隊に編入され、戦闘に参加した。
圧倒的なアメリカ軍の火力の前に日本軍は分断され、山倉の部隊も恩納(おんな)村付近の山中に逃げ込み、昼間は待機、夜間になると7~8人で米軍に斬り込み攻撃をかけた。

彼が所属した第32軍要塞建築第6中隊319人の名簿を手に入れ、生存者を確認した。
だが、ほとんどの名前は戦没者名簿の中にあった。
ようやく一人だけ見つけた生還者は数年前に死亡していた。生前、親族にも沖縄での体験を一切語らなかったという。
共同取材をしていたNHKディレクター皆川信司が防衛省防衛研究所で隊の記録を入手した。

弾薬欠乏、死傷続出

「沖縄作戦ニ於ケル 第三十二軍要塞建築第六中隊史実資料」
昭和22年3月25日 第三十二軍残務整理部
※1945年4月以降の記録より抜粋 (現代仮名遣いに改めました)

  • 4月1日
    9:00 敵は読谷山林北谷間西海岸より上陸を開始す。艦砲射撃至烈を極む。
  • 4月4日
    夜明けとともに敵兵力増加。1万に至り戦闘の激烈を極む。敵戦車および敵機の地上掃射、猛烈を極め死傷続出す。
  • 4月6~10日
    敵の包囲内にありて昼間行動、意の如くならず。敵機の地上掃射、艦砲射撃猛烈を極め、損害増加を考慮、夜間前進を決意。各所の敵陣地に強行突撃。
  • 4月20~5月2日
    中間岳において敵と遭遇、戦闘開始。攻撃したるも弾薬欠乏、死傷続出。進出、意の如くならず。いたずらに損害を蒙(こうむ)り、不利あるにかんがみ中隊長に連絡。
  • 7月10日
    糧秣(りょうまつ)欠乏の状態。なお発患者多数、弾薬欠乏の有様。急務なる糧秣聚集(しゅうしゅう)。大部隊の行動、集結は困難にして遊撃戦闘の目的を達すること出来ざると判断。中隊は長期の戦闘に堪ゆる目的をもって分散。喜仙原、恩納岳、阿布蘇付近に位置し遊撃戦に入る。

 

上陸してきた米軍に追われ、食糧や武器もないまま山中に逃れた兵士たちが山中に逃げ惑い、混乱し、倒れていった様子が浮かび上がってくる。

地上戦の凄まじさにたじろいでしまう。

気が滅入り、一人の男のことなどわかるはずがない、とあきらめかけていた。
そんな時、戦後に山倉兼蔵の遺骨を妻アキノに届けた人物からの手紙が出てきた、と孫の松浦真由美が見せてくれた。

「御主人の御骨送り」

仲嶺盛文から山倉アキノへの手紙

仲嶺盛文の手紙

※現代仮名遣いに直しています
拝啓
その後ずいぶんとながい間、失礼致しました。ご主人の御骨送りの事につきまして、沖縄政府の担当の人々とも話しあっていますが、御骨の一部なら送る事が出来るが、全部は今のところむずかしいというのです。私としましては、お送りするなら全部をまとめて送ってあげたいと思いまして今までのびのびになっています。

もし政府の方で御骨発送の事がうまくいかねば、来年になりますと私も日本の教育視察にゆく事が出来ると思いますので、その時に私が持参してゆこうかとも思っています。ご主人の御骨の方は私が責任を持っておあずかりしていますからご安心下さい。

古川先生へお願いした沖縄戦記録へご主人の事も書きたいと思いまして、ご主人の写真焼き増しました。一枚同封しておきます。
女の身お一人で多くのお子様の養育は大きな仕事ですが、常にご主人の御霊はお子様方を見まもっておられますから、力をおとされずに希望をお持ちになってお働き下さい。
一九五〇年十一月三十日 仲嶺盛文 山倉あきの様

住所は書かれていなかった。
「仲嶺盛文」について沖縄県庁に問い合わせてみると、沖縄本島中部にある恩納(おんな)小学校の校長をしていた人物だとわかった。
12年前に他界していたが、奥さんが健在だという。
すぐに電話した。
仲嶺盛文の妻、ツルの返事はこうだった。

「終戦当時、確かに恩納小学校の校長でした。でも主人から山倉さんのことは聞いていません。文章を書くことが好きな人でしたから日記には何か書かれているかもしれません」

山倉兼蔵は、いつ、どこで、どのようにして亡くなったのか。
私たちは沖縄に行くことにした。