戦争をめぐる旅『月光の響き4』

孫のピアニスト松浦真由美は、身内の最期を直視することに不安を抱いていた。
しかし、なぜ祖父は死ななければならなかったのかを知りたい、宮崎県終戦50周年記念の夕べでベートーヴェンのソナタ「月光」を弾くことにより自分に何がもたらされるのかを見届けよう――そんな覚悟のようなものが芽生えつつあった。

私は、戦争との距離の遠さに悩んでいた。
戦後50年企画で〝戦争もの〟の連載記事に取り組むことにしていたが、資料を読んでも映像を見ても何かが理解できない。
その距離を縮めてくれるのでは、と予感させたのが山倉兼蔵との出会いだった。
彼が時代の渦に巻き込まれ、どう生きて、どう死んだのかを知ることを出発点に、戦争を見つめようとしていた。

沖縄へ行く2日前、私は新聞のコラムで、こうつぶやいた。

「50年前に亡くなった、ある兵士の最期について、あらゆる手段を尽くして調べている。戦場で一人の人間がどう生き、どう死んでいったのか。それを具体的に知ることからしか、私たち戦後世代は戦争の恐怖、残酷さ、醜さを本当には理解できないのではないか。この夏、50年前の彼の姿を追い求める旅に出てみようと思う」

沖縄へ

太平洋戦争が終わって50年後の1995年7月16日朝、私たちは宮崎空港から沖縄に向けて飛び立った。朝日に照らされ青く輝く海、その中に浮かぶ緑の島々が見えてきた。
半世紀前、この美しい海は米軍艦隊で埋め尽くされ真っ黒になったという。
地上では砲弾の嵐が吹き荒れ、殺し合いや集団自決があり、飢えや病気が蔓延(まんえん)して、約20万人が死んだ。
そんな悲惨な戦争があったとは信じられないほど美しく、穏やかな風景だった。

気温30度、快晴。まばゆい日差しの下を歩き始めた。沖縄戦で命を落とした一人の男の姿を探して。

平和の礎(いしじ)で祖父・山倉兼蔵の名前を見つけた。会えた喜びを指で確かめる松浦真由美(沖縄県糸満市摩文仁の丘で)

仲嶺盛文の日記

手紙の差出人である仲嶺盛文(なかみね・せいぶん)の家を訪ねた。
盛文は12年前に死去しており、私たちを待っていてくれたのは妻のツルだった。

仲嶺盛文の妻。盛文が山倉兼蔵の遺骨を送ったことは知らなかったが、當眞嗣長につないでくれた。

松浦真由美が手紙を見せ、「ご主人が祖父の遺骨を送ってくださったことに感謝します」と話すと、ツルは静かな口調で言った。

「主人は情が厚く、よく人の世話をしていました。やると決めたら徹底的にやる性分です。自分は兵隊に行っていないという負い目もあり、山倉さんの遺骨を送るのは当たり前だと思ったのでしょうね」

しかし、なぜ盛文は山倉の遺骨送りをすることになったのかをツルは全く知らなかった。「もしかしたら」とツルが思い当たったのが夫の日記だった。
几帳面な盛文は、戦時中は防空壕の中で、終戦後の混乱期も日記を書き綴っていた。

ツルが出してきた日記の束を私たちがめくり始めた時、電話のベルが鳴った。

「山倉さんのことが日記に書いてありました」

沖縄本島中部にある恩納(おんな)村の當眞嗣長(とうま・しちょう)からだ。
私たちが訪問するということでツルは数日前、恩納村遺族会の當眞に日記を託していた。その當眞が、山倉についての記述を見つけたというのである。

山倉兼蔵の「その後」がわかるかもしれない。
私たちの胸は高まり始め、ツルの配慮に感謝しながら慌ただしく當眞の家に向かった。

山倉兵長の骨を見る

恩納(おんな)村の當眞嗣長(とうま・しちょう)

恩納村遺族会の當眞嗣長の自宅に着いた時は、すでに薄暗くなっていた。
「ご苦労さまです」と私たちを迎えた當眞は、仲嶺盛文の日記を前に説明を始めた。

最初に「山倉」の文字が出てくるのは1949(昭和24)年12月6日。
「安富祖よりのかえりがけ瀬良垣により山倉兵長の骨を見る。早速手紙を送ろう」

その半年後の1950年6月7日の日記には――
「宮崎県東臼杵郡門川局区内、山倉あきの氏より手紙きたる。瀬良垣の遺骨は、たしかに山倉氏だ。送ってあげよう。神様のめぐみ、有難し。こうして さびしい人、苦しんでいる人をなぐさめて、はげましてあげるのは何と有難い事であろう。よしよし、うんとお世話をしてあげよう。」

3日後の6月10日の日記にはこう書かれていた。
「民政府へゆき(中略)、社会事業課で盛竹氏に面会し、山倉氏の事を話し、それから行政法務部へ行き、屋良宣伸に山倉氏の骨の件、話し(後略)」

當眞によると、太平洋戦争が終わると各地域に散在している戦没者の遺骨を収集するよう沖縄群島政府から命令があった。
恩納村でも遺骨収集が行われ、氏名のわからない人のものは全部まとめて一カ所に納骨したが、身元のはっきりしている人の遺骨は確認して家族の元に送ることになった。

山倉の場合、住所や氏名がわかっていた。それを知った仲嶺盛文が家族の元に送り返そうと努力したのだろう、という。

なつかしきわが家へかえり給へ

松浦真由美は言葉もなく、盛文の日記をじっと見つめていた。
その横で當眞はつぶやくように「山倉さんは幸せだと思いますよ」と言い、こんな話を始めた。

「沖縄で戦死したのは、家族にとっては本当に残念なことですが、遺骨が全部帰ってきたのは非常にありがたいことです。沖縄の人間でありながら遺骨がないという人がたくさんいます。仲嶺先生の一番末の弟さんも、どこで戦死したのかも全く分かりません。見た人もいなければ、遺骨もありません」

當眞の父親も沖縄戦で戦死している。
嵐の時に高波で流され遺骨はない。その場所で石を拾い、墓に安置してあるのだという。

盛文も當眞も戦争で身内を亡くしていると聞き、私の中で何かがつながったような気がした。

懸命に手を尽くして山倉の遺骨をふるさとへ送り出した日、盛文は日記にこう書いた。
「つつがなく山倉氏よ、宮崎のなつかしきわが家へかえり給へ。重荷が下りた」

家族の元に届いたのを知った時は
「ほんとうによかった。おお、神の大いなる恵みに、ただ感謝あるのみ」
自分のことのように喜んでいる。

そして半世紀後、當眞も沖縄戦の犠牲者である山倉兼蔵をいたわり、孫の真由美のために尽力しようとしていた。

「日記によると、山倉さんは瀬良垣で亡くなっていますので、地元の区長さんや老人クラブの方々に調査をお願いしておきました」

當眞はそう言った。
すでに次の手を打っていてくれたのである。