戦争をめぐる旅『月光の響き6』

まさに、この世の地獄

供養の後、恩納岳のふもとに来た。遠くに見える海を眺めながら恩納村遺族会の當眞嗣長(とうま・しちょう)は言う。「50年前の海はもっときれいでした。午前10時ごろの晴れた日の海は七色に光っていました」

その海をアメリカ軍の軍艦が二重三重に取り巻いた。忘れられない光景を目撃する。
「日本の特攻機が突っ込んで来て爆発するのです。山の上から何度も見ました。異様な感じです。何とも言えない気持ちになりました」

地上には艦砲射撃の砲弾が雨のように降り注いでくる。5月中旬の恩納岳の戦闘はまる2日間、昼夜ひっきりなしに続いた。
日本軍が10発撃ったらアメリカ軍は100発撃つ。
「物量の差はどうしようもなかった。これは駄目だなと思いました」
それでも日本は戦いを止めない。沖縄の人たちも巻き込んでいく。

「戦時中、毎週金曜日に小学3年生以上は少年団訓練があり、銃の扱い方も習いました。16歳になると護郷隊に入ります。少年ゲリラ隊です。軍服を着て、銃を持たされ、徹底した軍国教育をされました。沖縄で戦死者が多いのはそのためです。爆弾を持って戦車に突っ込むのも当たり前。天皇陛下のためでした」

當山安昭(とうやま・あんしょう)も口を開いた。
「私の甥は21歳でしたが、沖縄出身の青年は戦車に体当たりしなさい、と言われました。爆弾を持ってタコ壷に入り、戦車が来たら体当たりする人間爆弾です。自爆したのか殺されたのか分かりません。遺骨もなく、石を拾って葬りました」
私たちはただ黙って聞いているしかなかった。
當眞は最後に言った。

「沖縄戦はすごい戦争でした。まさに、この世の地獄です」

「月光」の響きに乗って

恩納小学校の子どもたちを前に「月光」を弾く松浦真由美。

この日、松浦真由美は恩納村の小学校でベートーヴェンのソナタ「月光」を弾いた。
彼女のピアノは、音楽室の窓に広がる海にまで響き、青いきらめきの中に溶けていくような透明感があった。

祖父だけではなく、ここで犠牲になったすべての人たちへの彼女の深い思いを感じながら、私は縁の不思議さを思わざるを得なかった。

一通の手紙だけが唯一の手がかりだった私たちが仲嶺盛文の日記と出合い、ツルから當眞嗣長、そして當山安昭と絶妙なタイミングで結びつく。そして、たどり着いた先は山倉兼蔵の最期の地。
その途中で語られていく戦争の悲劇。
山倉の魂は、私たちを沖縄に招き寄せ、いくつもの縁を結び、何かを伝えようとしていたのかもしれない。

その後

この山倉兼蔵による縁は、この後もさまざまな出会いを私にもたらしていく。
ここまで紹介した2人の方のその後を紹介する。

山倉アキノ「四人の愛子に捧ぐ」

山倉アキノは、夫の兼蔵が沖縄で戦死した5年後、「四人の愛子に捧ぐ」と前書きし、7編の短歌を詠んだ。
そのときアキノには、14歳の長女やよい、12歳の次女、9歳の長男、そして夫の出征から1カ月後に生まれた6歳の次男がいた。
女手一つで懸命に育てていた。4人の子どもたちへの深い深い愛情を感じる短歌が残っている。

四人の愛子に捧ぐ

いつくしみ育つ四人のいとし子に未来の幸を神に祈りて

母なるが故に大なる責任を父に変りて務め果さん

夜半の雨ふと耳にして目を覚し愛子のね顔次々に見ゆ

すやすやとね入る愛子にほほ笑みて手こゆる身に成を楽しむ

遥かなる友想ふ身はうたかたの今宵の月に想いはせしも

二親が此の世に有りていとし子を育くむ幸ぞ永に変へなむ

とこしえに松のみどりにいとし子よ送りとどけむ母のつとめを

昭和二十五年八月七日記入 母 四十才

仲嶺盛文「あなたたちの冥福を祈ります」

平成25(2013)年、「ひまわり」というタイトルの映画が公開された。サブタイトルは「沖縄は忘れない、あの日の空を」。
この映画で描かれるのは、アメリカ統治時代の沖縄で起きた米軍のジェット戦闘機墜落事故。山倉兼蔵の遺骨を宮崎県門川町の家族に届けるため尽力した仲嶺盛文が校長を務める小学校を襲った大事故だった。
遺骨を届けてから8年後のことだ。
映画「ひまわり」公式ホームページにはこうある。

「あの悲惨な沖縄戦から生き延びた沖縄県民は、今度こそ戦争のない平和な時代をと一生懸命働いた。その矢先の1959年6月30日、突然、嘉手納基地から飛び立った米軍のジェット戦闘機が石川市(現うるま市)へ墜落し民家を押しつぶしながら、宮森小学校へ炎上しながら激突した。
住民6名、学童11名の尊い命を一瞬に奪う大惨事となった。そこはまるで生き地獄の有様だった。沖縄戦で多くの命を失った県民にとって戦後の子ども達は正に沖縄の希望の星であった。遺族をはじめ県民の嘆き悲しみは尽きることはなく52年たった今日まで続いている。この映画はその遺族・被害者たちの証言を元に制作され、今や沖縄だけではない日本人全体が抱える基地・外交問題などに大きな疑問投げかける(後略)」

当時、宮森小学校の校長だった盛文は事故の2日後、地元紙「琉球新報」に寄稿した。

あゝこの悪惨事
ゆきて帰らぬ子どもたち
あなたたちをなくして私はとても悲しいです
試練の負荷にたえかねて いくたびか
くずれさろうとするのを
人々の情けとはげましにささえられてやっとたえています
もう児童は あなたたちはもう永久に帰らない

私は悲しくてたまらないのです
これは一体どうしたということでしょう
これでよいのか 戦争がすんで十五年もなるというのに
基地の島に住むわれわれの大きな悲劇と思うのです
30日火曜日の2時間目まで
この美しい学園で先生とたのしくまなんだあなたたちは
Z機の爆音と共に 全身火だるまになり先生に助けてと一声のこして
一瞬にしてこの世から消えさっていった
あまりにも悲惨な事ではないか
私はどうしてよいかわからない
けれど、もうどんなにないたってわめいたってあなたたちは帰らない
あゝ私は勇気を出しておちつきをとりもどし
あなたたちのめいふくをいのります

どうかあなたたちも安心していって下さい
天国では神様が愛の心をもってあたたかく迎えて下さいます
どうか いつまでも 学校の守り神となって下さい
そして 世界の平和のもと力になって下さい
私はいつまでもあなたたちのめいふくをいのりつづけます

沖縄県公文書のホームページには「宮森小学校ジェット機墜落事故(石川ジェット機事件)」として次のように事故の概要が記されている。

1959年6月30日 宮森小学校ジェット機墜落事故(石川ジェット機事件)


1959年(昭和34)6月30日、石川市(現うるま市石川)の宮森小学校とその付近の民家に米軍ジェット機が墜落炎上しました。
その被害は、死者17名(うち児童11名)、負傷者210名(うち児童156名)、住家17棟、公民館1棟、小学校の3教室を全焼、住家8棟、2教室を半焼する大惨事となりました。
当時としては世界の航空機史上まれな大事故として内外に報道されました。

米軍は事故翌日「嘉手納基地所属のジェット機が訓練飛行中に突然爆発、パイロットは無事脱出したが、機体は目標をそれ、市内に落ちた」と発表、次いで7月2日、正式発表として「不可抗力の事故」であると言明し、住民の怒りをかいました。
立法院では事故当日の本会議中に緊急各派交渉会を開き、米軍に対する抗議決議案を全会一致で決議したほか、7月6日に「石川事件対策特別委員会」を設置しました。
また、同日、沖縄教職委員会、沖縄子どもを守る会、沖縄社会福祉協議会などの団体が「石川市ジェット機事件対策協議会」を結成し、被害者への救援運動に加え、米軍に対して救援・防止対策を強く要求しました。