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安田善吉の戦争

平和祈念資料展

第16回平和祈念資料展で展示された、安田善吉さんのイラストを掲載します。イラストは、第16回平和祈念資料展のために描かれました。
展示の詳細に関しては下記の記事をご覧ください。

資料展の解説・朗読音声はこちら↓をご覧ください。

安田善吉さん

昭和9年(1934)、宮崎県延岡市北町生まれ。
延岡小、岡富中、恒富高(現・延岡高)、日本大学卒。小学生のころ少女歌劇のレビューを見て舞台に魅了された。20歳のころ、映画雑誌「近代映画」で美空ひばり、石原裕次郎らスターの似顔絵を描く。
雑誌などでレタリング専門家として働く傍ら、宝塚歌劇団の月刊誌「宝塚GRAPH」に宝塚スターの似顔絵とインタビュー記事を連載、現在まで半世紀以上続いている。東京都在住。

安田善吉の戦争

戦争ごっこ?
昭和18年頃

五ケ瀬川の河川敷は延岡国民学校生、岡富国民学校は対岸から、石の投げ合いがあった。今思うと大変危険な遊びだが、皆必死で投げ合っていた。
延岡側は石がたくさんあったけど、岡富側はどこから石を持ってきたんだろうと、今もって不思議である。私は怖くて板田橋の下から見物していたが、不幸にも橋の上から飛んできた石が私の頭に当たり、血が流れ出て、泣きながら家に帰った。その傷は今もある。


石拾い
昭和19年頃

学校から、かるいかごを背負って五ケ瀬川の河川敷から石を拾ってきては、クラスごとに校庭に山積みした。これは何に使われたのだろうか。


落ち穂拾い
昭和18年頃

稲の刈り入れが終わった後、全生徒はカゴを背負って、田んぼに整列。落ちた穂はないか、目を皿のようにして拾い歩く。
場所は現在、大貫町の夕刊デイリー新聞社のあるあたり。当時、城山より西方は全部田んぼであった。


体操の時間

体操の時間に、こんな大きな輪に乗ってクルクル回るのである。航空機に乗って宙返りの時に役立つと言われたものである。しかし、誰もが飛行機に乗る訳でもないのに。


灯火管制

夜になると電気の傘に黒っぽい風呂敷を巻きつけて、灯りが外にもれないようにした。食事も勉強もすべて、わずかな灯りのもとで。

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・家ごとに水と砂を完備
・自転車の横乗りが子供たちに流行
・音楽厳禁
・米軍捕虜の公開
・焼夷弾が初めて落ちはじめた瞬間
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延岡バックステージ
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