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首藤正治のボローニャ滞在記①

首藤正治のボローニャ滞在記

寄稿/首藤正治

ボローニャの象徴の二つの斜塔

ボローニャへ

「延岡はボローニャを手本にしたらいいよ」
旭有機材工業の元社長の岡野徹さんからそう言われたのはもう10年くらい前のことだったでしょうか。
それ以来、まだ見ぬこの街はずっと僕の頭の中の片隅にくすぶり続けていました。
そしていま、そのボローニャに2カ月あまり滞在する機会を得てイタリアに来ています。
空港から旧市街に到着すると、そこには中世そのままに一面のレンガ色の世界が広がっていました。


右の塔に登って撮ったもの(上2枚)

見上げれば、いくつも高くそびえ立つレンガの塔と澄み渡る青空のコントラストは素晴らしく、その多くが建設された700年前にも人々は全く同じ光景を目にしていたのだろうなと想像をかき立てられます。
当時は、貴族が権勢を誇示するために市街地には180もの塔が高さを競って林立し、ボローニャは「百塔の街」としてヨーロッパ中に知られていたのだそうです。
戦争で破壊されたものも多く、現存の塔は40本、そのうち保存状態の良いものはわずか11本になってしまいました。
ちょっと奮発して旧市街中心部にアパートを借りましたので、部屋の窓からはそのうちの六つを眺めることができます。

かつての「百塔の街」のジオラマ

さて、今年の春まで取り組んできた市長の職務は確かに責任の重い激務でしたが、その反面、頑張っただけ(流行語風に言えば)〝半端ない〟充実感が得られますし、市長ならではのさまざまな人との出会いや交流もありました。

市長を退任して以降、4月から大正大学で客員教授を務めることになったのも市長時代の出会いがベースにあります。
地域創生学部の地域実習のために延岡にお越しになった大学幹部に市長の仕事を主題にした拙著を差し上げておいたところ、読んでくださって「この内容を学生に」とお声がけいただいたのが大きな転換点となりました。
今は月に1度、3日間程度上京しています。

ボローニャ大学法学部の入り口(工事中)

ボローニャ大学のパオラ・スクロラヴェッツァ教授と昨年の秋に知り合ったのもそうした市長時代のご縁のひとつでした。
彼女は大学ではアジア言語・経済・文化に関するコースのコーディネーターを務めています。その半年前に僕はもう市長を辞めると宣言していましたから、であれば市長としての12年間の経験を踏まえた話は日本語・日本文化を専攻する学生の役に立つだろうということになり、今月から11月にかけて講義をすることになったというわけです。
大正大学からオファーがあったのはその話のずっと後だったので、2カ月あまりのイタリア滞在の間は東京に行けないことはあらかじめ理解してもらっています。

パオラ先生はたいへんな日本通で、”NIPPOP”と銘打って日本文化をイタリアに紹介する活動を展開しておられます。名称から想像もつくかと思いますが、日本のポップカルチャーなどの現代文化を中心にされているようです。
日本語もペラペラで、何度かやりとりしてきたメールの文章は根っからの日本人が書いたとしか思えません。

「日本語に少しの英語を混ぜながらの講義でいいですね」と当初から念押しをしていたのに、その後ずいぶん経って「新学年を迎えたばかりで、学生はあまり日本語はわからないから全部英語でやって」とメールが来たときには青ざめたものです。
イタリア語に加えて英語も日本語も堪能なパオラ先生にすればたいしたことではないのかもしれませんが、こちらにしたら大問題です。
即座に「ぜったい無理だから通訳をつけて!」と懇願する羽目になってしまいました。
それは何とか受け入れてもらえたのでほっとしていますが、ここは良くも悪くもイタリアですから、その日になってどんな展開になるかは予測がつかないと心しておかねばなりません。
今さら心配してもしようがないという気持ちになってきたのは、この数日で感覚が少々イタリア化してきたということなのでしょうか。

市の中心「マッジョーレ広場」

それでは、まずこの街の概要を記しておきましょう。
人口約39万人。イタリアの中北部、フィレンツェとベネチアの中間あたりに位置します。
かつてローマ帝国時代にはイタリア第二の都市だったこともありますし、13世紀末にはヨーロッパ全体で見ても第5位か6位の都市だったようです。
なぜかと言えば、ローマとミラノそしてベネチアを結ぶ三角形の中心点がボローニャであり、大きな街道の結節点という優位性があったために他なりません。

マッジョーレ広場に面する市庁舎内の美術館で特別展を開催中
展示されている絵画より壁面の装飾フレスコ画や彫刻の方が見応えがあった

また、延岡に講演に来ていただいたこともある井上ひさしさんの著書「ボローニャ紀行」によれば、ここはヨーロッパ最大の絹織物の産地だったので、海運の拠点であるベネチアへと結ぶ道のことをボローニャ人は「ほんとうのシルクロード」と称しているのだそうです。
現地の人たちがいまもそういう思いを持っているのかなど、これからおいおい確認していこうと思います。
ボローニャの街について興味のある方は是非この本を読まれるようお勧めします。イタリア文化がとても面白く掘り下げてありますし、冒頭の岡野さんのご提案の意味もわかろうというものです。
そんな交易の盛んな街が、商取引き上の必要から11世紀にはローマ法研究の一大中心地となりました。ヨーロッパ各地から法律を勉強するために集まった学生たちが自治組合(ウニウェルシタス)をつくり教授を雇って、広場や教会や教授の家で学ぶという形でしたが、これが現在の大学の原型となりました。
欧米で大学がユニバーシティと称されるようになったのもここに起源があったのですね。こうして、ボローニャ大学はヨーロッパ最古の大学として1088年に誕生しました。
最古というだけあって、かつてここで学んだ学生の中にはコペルニクスとかガリレオ・ガリレイとか「神曲」を書いたダンテなど、そうそうたる名前が並んでいます。そんなところで教鞭をとると考えると、いまさらながら身が引き締まる思いです。
(つづく)

首藤正治
大正大学客員教授・元延岡市長

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