父・黒木肇の手記5

父・黒木肇(はじめ)の手記5

※現代仮名遣いに改め、読みやすく編集しました

横手少尉、国分の出身。4年ぶりの墓参りとかにて同車帰郷さる。途中、少尉と鹿児島に同宿す。國雄と床につきし感にて、三角兵舎の晩の事思わる。
鹿児島日報に黒木國雄隊の記事あり。社より戴く。国の土産何よりなり。
隼人駅にて横手少尉と分離す(お別れしたり)。車中話す人なき。昨日来の事の想起され偲ばれて、一人寂寥(せきりょう)たり。

國雄遺品の軍刀、「これ持ちて突入せよ」と申したのに、「これは民雄に」と拳銃に弾込め、「これにて大丈夫」と征(いさん)で行きし。
國雄、図嚢(ずのう)を見れば戦場持参する航空食、菓子あり。
「征けば生命(いのち)無きに、妹弟たちに」と最後までの心づかい。
國雄はどこまでも優しい子だった。

わが家の者、國雄に面会でき出撃突入までも見聞きし事、よもや知るまじ。この話して聞かせたらんには、いかほどの喜びかと。
淋しき車中に、また、一時も早き帰着待つも、この汽車、宮崎止まりたり。下車し、昨日のB29の奴の暴爆の様を見、無念千万なり。

國雄を沖縄の決戦に捧げし昨日の今日、今に見よ米の奴ら。沖縄戦局の重大さを痛感す。
続々続々、特攻隊ある以上、大日本断じて勝つ。
要(かなめ)は、特攻機の生産第一也とぞ思ふ。
特攻隊に続け。
國雄に民雄、義雄、続けよ、進め。
われら一同、ますます責任大なり。

午後6時帰宅し、國雄に会われし縁(えにし)により出撃突入の無電まで話し、父上、近隣の人に聞かせたり。
今に思う、何とありがたき、國雄との深き縁なりしか。
祖母様の霊をはじめ皆様のお陰なり。
皆、感喜して下さる。ありがたきことなり。

日のたつにつれ、思い出次々なり。また、次々と國雄の心情の便りあり。懐かしき事の数々なり。
さるにしても國雄、今度の決心、隊長として、さもありし事と思われる。

鹿児島県霜出(しもいで)局 竹之内薫様より書留着
電報頼信紙(らいしんし)に國雄の筆にて
クルナ ゲンキ デ オヤクニタツ クニオ
知覧町霜出 黒木國雄

裏面に「私は霜出局員です。福岡から打電した日の午後5時頃、黒木殿が局においでになりまして、打電してくれと申されましたが、官報だけしか打てませんので、とお伝えしたところ、大変元気でお役にたったと申してくれとの事です」とあり。
自分が隊長として面会に来らしては部下にすまぬと思う親心なりと思う。

なお、遺品整理中、自省録(じせいろく)の一番終りに

いよいよ明日出撃致します。
部下3名(伊東、北澤、中島)を先に出撃せしめたような事になりまして、今はただ一刻も早く残りの部下と突入し、隊長以下を待ちわびて居ります3名の所に、彼らの戦果と私たちの戦果を報告して、寂しかっただろう彼らを慰めてやりたき気持でいっぱいです。部下を先立たせた私の気持ちお分りになる事と信じます。

9月の最後の休暇で明野に帰ります時
「このまま、戦地に征くかも知れぬ」と申し上げましたが、着校後のお便りで、皆々様も覚悟の上なりとのお便りを受け、大いに安心して居ります。

今度も、隊長を拝命しましてから、あるいは、無理をお願すれば、皆々様に来てもらえたかもしれませぬが、それでは武窓4年間の生活の意義が立ちませず、軍人は帰ったその時が常に最後であり、生別死別が私たち軍人のおよび、その一族の常であるとの教えの通り実行致しました。私の部下も全員学鷲(がくわし)出身でありまして、編成前に、任官後初の休暇で帰省致し、特攻隊になる事も告げず私の所に参ったのです。

昭和16年4月、君の御楯と選まれましたその時から、今日あるを期し居られました皆様の事、必ず、私のこの処置を賞(ほ)め嬉ばれる事と信じます。

とあり
國雄のこの覚悟、この決心は、今さらにありがたき決心なり。既に十分覚悟の上、お役に立ちし事の偲ばれるなり。
しかるに親、煩悩の面会し、國雄にも、また隊員の神々に慚愧(ざんき)する次第なるも、國雄も察してくれる事と思う。
國雄よ、すまぬ。
ああ、昭和20年5月11日午前6時~8時42分。
日にちのたつにつれ、当時の事の朝夕に思われ、あの莞爾(かんじ)とした神風の鉢巻せし荘厳なる出撃の勇姿、瞼に残り。
戦闘指揮所にて菅原閣下を奉り、幹部の方々と第一突撃隊、突撃開始。我突入すの無電まで聞き届けし我なるに、いつかあの姿にて、ただ今帰りましたと遷(う)つり来るように思われるも、煩悩ならむ。

出で征きしより早1月(ひとつき)の6月、霊前に百合の香薫れど、未だ寂寥(ものさび)しい。
去るにしても國雄は遺書通り多幸者だった。
無二の戦友、同期生たる吉玉安弘中尉より6月5日の書信に
國雄君、最期の出撃の誘導、ならびに直掩(ちょくえん)はこれ皆57期にして、その壮烈なる戦果、直接に聞き及び、今さら、その威大なるに感慨に堪えず候とあり。

敵艦に爆弾もろとも体当たりするその直前まで同期生に見守られ、散華せしとは全くわが子ながら武運に恵まれし者とぞ思う。

神州に仇艦よこす夷しらの 生膽とりて玉と砕けん
の遺書通り、敵艦上に玉と散華せし事と、また慰められん。
國雄は最後まで幸福者だった。

思い出のまま集録するはずなりしも、國雄の遺書通り、延岡も戦場、祖国延岡にも空中戦のあり、空襲警報など繁(しげ)しくなりぬ。思いは念頭より沖縄本島嘉手納沖。

昭和20年6月28日、延岡市に大空襲あり。午後11時、川中地区ほとんど全部、焼夷攻撃のため自宅も焼失す。
三福寺裏の堤防の下に全員集合したり。國雄の加護にか全家族無事なり。直(すぐ)に、西臼杵郡上野村(かみのそん)南町204番地に疎開す。

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書いた人:坂本光三郎

坂本光三郎

宮崎県延岡市出身・在住。1983年、早稲田大学を卒業し、延岡市の夕刊デイリー新聞社に入社。編集部記者として、文化・歴史・福祉を担当。小・中学校の平和学習講師も務めている。現在、夕刊デイリー新聞社取締役(編集担当)。FMのべおか局長。

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