戦争をめぐる旅『月光の響き2』

山倉兼蔵

山倉兼蔵

松浦やよいの父、真由美の祖父である山倉兼蔵(やまくら・かねぞう)は、明治43(1910)年2月11日、宮崎県の北部に位置し日向灘に面した門川(かどがわ)町で生まれた。
隣接する工業都市・延岡市のベンベルグ工場に勤務する兼蔵だったが、昭和19(1944)年3月22日に出征した。当時34歳。

妻アキノ、小学1年生の長女やよい、それに5歳の次女、3歳の長男の5人暮らし。アキノのおなかには次男がいた。(兼蔵の出征から1カ月後の昭和19年4月2日に生まれた)

身重の妻と3人の子どもを抱え、ごく普通の生活を送ってきた会社員は、昭和20年に沖縄で戦死した。
戦後、遺骨は帰ってきたが、亡くなった場所や日付はわからないという。

娘、やよいの話~父との別れ

(1995年5月7日インタビューより)

赤紙が届いたのは昭和19年の1月か2月の朝でした。
まだ暗いうちに目が覚めると、臨月前で膝が隠れるぐらいおなかの突き出していた母が、父にご飯をよそおいながら泣いていました。それを見て私は「なぜだろう」と思いました。

父が「戦地に行くからといって死ぬ、と決まっているわけじゃない。心配せんでいい」と慰めていたのを覚えています。
母は、無事に帰って来れないんじゃないかな、と泣いていたんだと思います。
幼い私には、戦争に行くということがどんなに危険なものかはわかりませんでした。

子どもが大好きな父でした。会社から帰る時には絵本やコンペイトウをお土産に買ってきてくれたり、夜は私が眠るまで昔話をしてくれました。

バナナが欲しい

父を送り出す前の日、親戚の人たちが集まって送別会をしてくれました。
その時、父は「お国のために元気いっぱい戦ってきます」と、あいさつしたと思います。
そして皆が帰ったあとに、父は子どもたち一人ひとりに「お土産は何がいいか」と聞くので、私は「バナナが欲しい」と言いました。
当時、バナナは貴重品でめったに食べられませんでしたから、あこがれがあったのかもしれません。父は「よしよし。バナナを買ってくるからね」と言いました。

子どもなりに別れの寂しさを感じていたような気がします。
家の周りの人たちが集まって「バンザイ、バンザイ」といって送り出しました。駅では入隊する人たちがずらっと並んで、家族と地域の人たちが日の丸の旗を振っていました。父が代表してあいさつをしたのを覚えています。

汽車が動き始め、ホームで小旗を振って見送りましたが、出征する人たちはみんな窓から顔を出して手を振っているのに、うちの父だけがいない。
そうしたら、汽車の最後尾のステップのところに軍服を着た父が一人立って手を振っていたのです。
列車が遠ざかるまでずっと手を振っていました。

父ちゃんが戦死した

父の戦死の公報が来た時、私は母の姉の所にいました。
おじが私を呼んで「父ちゃんが戦死したと連絡が来たから今から一緒に帰るぞ」と言いました。
昭和20年10月のことです。夜中に目を覚ましたら母が泣いていました。

戦争に行った人はみんな戦死したと思っていました。でも、周りのお父さんたちは復員して帰ってきます。
なぜ私の父だけが帰って来ないんだろう、とすごく悲しい思いをしました。誤報であってほしかった。
葬式をしたにもかかわらず母は、もしかしたらどこかで生き延びていて、いつか帰ってくるのでは、という夢を何年も持っていたと思います。

父の遺骨は、公式な手続きは取らず、民間の人たちの手で引き渡されました。山の上で倒れている兵隊さんがいたので、現地の学生と校長先生とが穴を掘り、目印をして土葬したそうです。所持品から父の山倉兼蔵だとわかったようです。

何年かのちに、沖縄の病院で働いていた看護婦さんが本土に帰る時に父の遺骨を預かり、都城の駅で母たちに届けてくれました。
かなり大きな箱で白い布に包んでありました。

赤い骨

小学校の終わりか、中学校のころ、誰もいない時に仏壇から遺骨の入った箱を下ろして開けてみたことがあります。
中には赤い骨がいっぱい入っていました。一番上に乗っていた頭蓋骨には穴が開いて割れていました。

埋めてくれた人の手紙によると、頭を撃たれており、ほとんど即死の状態だった、ということです。
私には、父の骨ってどんなものなんだろう、どこを撃たれたのだろうか、本当に父なんだろうか、という疑問があったんだろうと思います。怖いという印象は全然ありませんでした。

父が戦死したとはわからない頃、どうしてこんなに悲しい夢を見るんだろうか、と思ったことがあります。
目の前の田んぼにポッカリと黒くて大きな穴が開いて、中から炎が上がり始め、その炎の中に父の姿のようなものがボーと上がってくる夢。とても悲しい夢でした。

私たち家族が悲惨な生活を送っている時でした。あれは父が私に見せた夢だったのかな、という気がします。終戦後も父の夢を何度も見ました。

いずれ、父が命を落とした沖縄へ絶対に行く、と心に決めていましたが、経済的なゆとりがなくてなかなか行けませんでした。

ようやく行ったのは三十三回忌の時の昭和53年、母と私の子どもたちを連れて行きました。
飛行機から沖縄が見え始めた時に涙がボロボロと出ました。
父の骨がなぜ赤かったのか、沖縄に行って赤土を見て初めてわかりました。あの土に埋められていたからあんなに骨が赤かったんだなあ、と謎が解けたのです。

万座の海を見た時はすごく悲しかった。このきれいな海を見ながら父は残してきた家族のことをいつも思っていたんだろうなという気がして…。
帰る時、「家族で来たよ。一緒に帰ろうね」と心の中で呼び掛けて帰ってきました。不思議なことに父の夢はそれから見なくなりました。

妻、アキノの話~戦死した夫へ

(1995年7月13日のインタビューより)

妻アキノ、長女やよい
次女、長男、次男

召集されるまでは親子5人で平和に暮らしていました。とにかくやさしい主人で子ども好き。怒ったことがなく、私も大事にしていただきました。

出征した時、4番目の子どもが私のおなかに入っていました。「子どもを大事に産めよ」と言い残して行きました。
産まれたのはそれから29日目です。戦地にその子の写真を送ったら、「写真を見ると、もう歩くような姿をしている」という葉書が来ました。それが最後でした。

震えが止まらんとです

役場から戦死公報が来たのは昭和20年の10月の中ごろ、晩ご飯を食べてくつろいでいる時でした。
公報を受け取った途端、全身がぶるぶる震えました。
涙は一滴もこぼれず、ただ震えているだけ。自分でも恐ろしいぐらい震えがきて…どうすることもできません。

隣の家に駆け込んだら、おじさんが寝ていたので事情を話して、「震えが止まらんとです。布団の脇に入れてください」と頼んで、じっとしていたらやっと止まりました。お礼を言って帰ったのを覚えています。

人間は悲しみの絶頂に達した時には涙がこぼれない、という話は聞いていましたが、その通りで、不思議なほど涙は一滴も出ませんでした。
でも日がたつにつれて涙が溢れ出して…。
それから苦労が始まりました。

戦後届いた遺骨

終戦後、沖縄から届いた手紙には「激戦があり、朝方行ったら小高い丘の上にご主人が倒れていました。あとは仲嶺(なかみね)さんにすべてを依頼しておきました」と書かれていました。
その仲嶺さんから「愛媛県から看護婦さんとしてこちらに来ている方が、鹿児島に公用で行かれるので、その人にご主人のお骨を頼みますから都城まで受け取りに来てください」という手紙が来ました。

主人の兄さんと2人で都城に行き、お骨を受け取りました。

ずしっと重かった。骨が全部入っていたからです。

沖縄からの手紙には「カライモを4キロほど背負っていました」とありました。私は主人に「戦地に行ったら飲まず食わずの時もあるだろうから、食べ物は自分で確保しなさいよ」と言いました。
私の言ったことを思い浮かべていたのかな、と思いました。

頭を撃たれて、あっという間もなかったと思います。家庭のことや子どものことなどを考える間もなく即死だったのでしょう。苦しみもなくて、その場でぱっと命を断たれて…。

戦地に夫を取られて

私の年代では未亡人になって苦労した人がたくさんいます。だから「私一人でない」と自分を慰めることができました。
皆、戦地に夫を取られて一様に苦労していました。

今の若い人たちは戦争の話を聞いても実感がわかないでしょうね。私たちの年代で、戦争を通り越してきた人だけにしか本当の気持ちはわからないと思います。話を聞いて「戦争ほど悲惨なものはない」とは思うでしょうが…。

尋ねられたら話しますが、つらいことまでは話したくありません。悲しみを思い出して涙が出るから。
(沖縄県糸満市摩文仁の丘)で、4人の子どもが素直に育ってくれたことを主人に報告した時の喜びは最高でした。